そして、時を経て戦後。戦争が終わった後、いろいろと復興計画があるんですが、これは先ほど、神谷先生の話に出た「広島平和記念カトリック聖堂」コンペ案です。
これについて言うと、意外かもしれませんが、オーギュスト・ペレの影響を受けているんです。ペレっていうのはコルビュジエの先生になります。
僕はこの作品を見て建築を志したくらいインパクトがあったんですが、パースをみるとやはり、構造をあらわにして、構造をデザインの主要なテーマにするという丹下さんの意思が、見事に反映されていると思います。
そして、初めての実作、「広島ピースセンター」になります。
これは本当に戦前の大東亜と同じで、軸線を通して、そこにアーチがあって、その向こうに原爆ドームがみえます。当時の他の人の案は誰も原爆ドームに注目していませんでした。菊竹さんの案では、正面に大きな建物をつくって原爆ドームは見えません。山下設計の案では、神社みたいなものが西向きに建っている。要するに、原爆ドームには誰も気付かなかったようです。
敷地南側に大通りがあります。青い所は川で、中州のような不整形な土地が敷地でした。大通りに直交し、中州のほぼ中心を通る軸の先に原爆ドームがあります。そういう計画のポイントに丹下さんだけが気付いたということです。
ただ、丹下さんはその前から、広島の復興計画に入っていますから、広島市ともいろいろやり取りをしていました。だから、もしかしたら、コンペの要項を丹下さんがつくっていたかもしれないんです(笑)。
というのは、この範囲(原爆ドーム周辺)が要項にちゃんと入っているんです。他の人はなんで、こんな所が入っているのかなと、誰も気付かなかったそうですし、気にしなかった。
ただ、このコンペの投票では、1回目の投票はダメで、昼休みを挟んで、その後に逆転するんです。それでも圧勝ではなくて、1票差か2票差で勝つんです。昼休みに何があったか分かりませんが、委員長の岸田日出刀がものすごくがんばったんだと思います。逆転していますから。だから落ちてた可能性もあります。
工事が始まってからCIAMに呼ばれます。それで、コルビュジエの前で全体計画を発表しました。コルビュジェは「これはいい」と言ってくれたそうです。
当時は周辺がどうなるか分からない中での整備でした。この写真は丹下さんが工事中に撮影したものですが、まわりは墓地でした。
現在の慰霊碑の前に、イサム・ノグチさんに依頼した慰霊碑の案がありました。
これは、ノグチさんが自分でやりたいと言ったもんだから、丹下さんはお願いしたんですが、これが出来なくてよかったと思います。これ、高さが4mほどあるんです。イサム・ノグチは明らかに、自分の慰霊碑を拝むようにつくっているんです。この慰霊碑の前に立っても原爆ドームは隠れてしまいます。そうなると一番大事な丹下さんの計画が消えてしまうんです。これが実現しなくてよかったけど、イサム・ノグチは晩年までやりたかったようです。
丹下さんはいろんな人とコラボレーションしていきますが、デザインをすべて依頼するということは何か特別な思いがあったのでしょうか?
イサム・ノグチとは造形的な部分で通じるものがあったからじゃないでしょうか。
この写真が、現在の姿です。これはちょうど立っている高さですが、原爆ドームがぴったり納まるようになっています。
イサム・ノグチの慰霊碑が実現しなくて、申し訳ないという気持ちがあったかどうか分かりませんが、川の欄干をイサム・ノグチさんがつくっています。「つくる」と「ゆく」です。
ここで、柱と梁について。これはコンクリートですが、四角い柱ですね。
ほんとうにきれいですよね。この特徴は、まず梁の太さを隠しています。隠すためにピロティーを出して、これだけでは、何となく寂しいので、高欄を付け加えています。
僕は、この計画が進められている時は学生だったんですが、先輩から聞いた話では、指物大工さんを呼んで何案も模型を作って、これもダメ、あれもダメとなって、模型を作る中で最終デザインを決めたそうです。
梁の表面よりスラブが表に出ることで、影ができる。その影も梁を細く見せることにつながっています。
そういうところは本当にすごいです。普通なら、この手すりも柱のところで分断させると思うんですが、つなげている。