生い立ち

| 林 |

 それでは、次に生い立ちについて簡単に触れていきたいと思います。丹下さんというとお隣の愛媛県今治市出身と言われていますが、他の記録を見ると大阪出身、ともあります。その辺りの真偽のほどはどうでしょうか?

| 藤森 |

 生まれたのは大阪です。住友銀行の銀行員の子供として生まれて、たしか、安藤さんの住吉の長屋と近い場所だと思います。そのあと武漢と上海に行き、お父さんが、今治のタオル工場を継ぐために、丹下家の故郷の今治へ移り住みました。

| 林 |

 この時代というのは、膝がみえるくらい短い丈の着物を子供は着せられていたのですが、丹下さんは、海外生活もあるためか、すごく身なりがきちんとしている印象を持ちます。

小学2年生の丹下(中央)と母テイ
小学2年生の丹下(中央)と母テイ

 今治では、今治中学校に進学します。この頃は、望遠鏡に興味をもち没頭していたそうです。それから旧制の高等学校へ進学するのですが、ほとんどの学友が同じ今治の学校へ行くのに対し、丹下さんは広島高等学校へ行きました。その理由が、母親が溺愛していたために、それから逃げるためだと、評伝に書いていましたが、その辺りはいかがでしょうか?

帰国時 中央が父辰世、その前が母、右端が丹下
帰国時 中央が父辰世、その前が母、右端が丹下

| 藤森 |

 それは、事実です。母親から逃げないと自分は人間としてダメになると思ったらしく、普通だったら松山高校へいくところを広島にした。

広島中学4年生の丹下
広島中学4年生の丹下

| 林 |

 この写真は、安芸の宮島ですが、アプローチとして水面に鳥居があり、このまっすぐ抜ける軸線が丹下建築の一つのキーワードになります。また、回廊の柱が並んでいる空間も丹下建築に表れてきます。

「安芸の宮島」
「安芸の宮島」
「安芸の宮島」
「安芸の宮島」

原風景

| 藤森 |

 広島のピースセンターの最初の計画には海からのアーチが描かれているんですが、あれは、間違いなく瀬戸内の海の朝日と夕日と宮島の影響を受けているんだと思います。 

 子供の頃、今治では遊ぶところがないから子供達は毎日のように、海で遊ぶらしいです。それで瀬戸内の海に、大小の島々がある中に日が出て夕日が沈むんです。あの光景は誰が見ても心打たれるものです。あれがもとで、丹下さんの「軸線」があって、「先が抜けて」て、「その先にシンボリックなもの」があって。その瀬戸内の光景がまずあって、その次に宮島が頭の中にあったのではないかと最近考えております。

| 林 |

 先ほど神谷先生がおっしゃいましたように、丹下さんは、広島で高校時代を過ごします。将来どういう進路に進もうか考えている時に、コルビュジエの「ソヴィエト・パレス」に出会いました。

 これは左右に2つのボリュームがあって、2つをつなぐブリッジのようなものがありながら、それに直行する軸がすっと抜けている。それからアーチ型の構造物が屋根を吊っている、つかんでいると言ってもいいと思います。あと、この扇形の形状は、その後の丹下建築に何度も出てきます。

「ソヴィエト・パレス」ル・コルビュジエ 1931年
「ソヴィエト・パレス」ル・コルビュジエ 1931年

| 藤森 |

 この建築ですが、建築としては、まず、2つのボリュームの中心に軸が存在すると思います。ただ、アプローチは軸に直行する形になっています。これは珍しい形だと思います。またアプローチの軸の先には何も存在しないんです。川辺につながっているだけです。そういう意味で、アプローチの軸に大きな意味はなかったんだと思います。